昭和50年12月29日 朝の御理解



 御理解 第64節
 「此方は参って尋ねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路の所を参って来るが、信心して徳を受けて身しのぎをするようになれ。」

 此方は参って尋ねる所がなかった。ただ尋ねると言う事はどう言う事かと言うと、信心を尋ねる、求めると言う事です。ただ右にしたら良いでしょうか、左にしたら良いでしょうかと尋ねる、所謂お伺い事というでしょうか。それではないですね。どういう信心をするのが本当なのか、真の信心とはどう言う信心なのかと、教祖様も様々な信心がお好きで、あらゆる仏様神様も拝みなさった。
 けれどもどういう信心をする事が本当かと言う事は分からなかったと。段々おかげを頂かれ、実意丁寧神信心一筋の御信心が天地に通じる。言うなら天地の親神様から御依頼を受けられる程しまで信心がお進みになり、天地の親神様からの言わば直伝、直々お知らせを頂かれて、こういう信心をさして貰わなければならん、こういう真の道とは天地の本当の道理とはと言う本当の信心を神様から受けて。
 そして求めて来る者にお与えになられた。
 教えられたのですからただ参って尋ねると言う事は、ただ自分の言うなら我情我欲の為にお尋ねすると言う様な尋ねる所ではない。そういう尋ねる所ならば随分昔からあったんじゃないでしょうかね。お尋ね言わば拝み屋というですか、お稲荷さんも御座ればお不動さんも御座る。だがそういうのじゃない。教祖が仰るのは信心を求めて尋ねる、所謂尋ね求めるということでなからなねば、所謂徳を受けて身凌ぎをする様になれと仰っとられますから、ここでもはっきりそれが解ります。
 お徳を受ける事の為にです、身凌ぎが出来るようなおかげを頂ける為に信心を尋ねなければならない。求めていかなければならないという訳であります。だから本当にこの信心求道と言う申しますね、道を求めると。その道を求める姿勢という物が要るんです。本当の信心をさして貰う。お徳を受けるというのには、求めて求めて止まん物がなからなけりゃいけない。ここではその所を教祖様の御教えを基にして、仲々難解です解らない。余りに簡単な言葉で表現しておられますから。
 もう本当にややもすると只言葉に表れて居る所だけしか分からんのです。けどその深さ広さと云う事に於いてはもう限りがない。今日様の御教えは。そこの深さ広さを、合楽では、私がまた神様から頂いて皆さんに、深さ広さを本当に間違いのない、これならお徳が受けられる。これならおかげが受けられると言うお話を、しかも容易う判り易くしかも誰でも出来るような表現で、しかも或場合は面白う可笑しゅう、云うならば説き明かして下さるところが、合楽の値打だと、私は思うです。
 昨日は竹葉会でしたから、私お話をさせて頂いたのですけれども、昨日は殆どいわゆる教学的な話ばっかりでした。それでも矢張りあの長い時間をです、皆が退屈も何もしないなりに分かり、それこそ眠気も付ない思いで皆が研修致しております。それで最後に合楽で教学の勉強をする事は実に楽しい事でしょうが。例えば今迄金光教の教学と云うものはどんなに熱心に求めておってもです、お話を三十分も頂きよると眠気がする。
 しかもその実践に備え難いと言うか、実生活に頂き難いと言う面がで、昨日申しました様に、金光教本部での教学研究会と言うものが解散したと、そして実際の実践ですね、言うなら踏み行うと言う事が出来る様な教学じゃなければならないと言う様に、昨日も新聞に出てましたから、その事も皆さんに聞いて頂いた。昨日の朝の御理解をここの修行生の方達が皆それぞれに研修致して居ります。
 それを皆が三時半から持ち寄って検討する訳です。もうそれに一人一人の研修しとるのを聞くだけでも勉強になります。そして朝頂いた御理解がこんなにも深くて、こんなにも広くと思う位です。そしてそれを頂き乍らです、実に楽しいです。合楽の場合は。ですから皆さんが本気で求められ、本気で尋ねられるならばです、それが又頂けれるのですから、身凌ぎも出来る様になるだろう。お徳も受けて行く事になるだろう。いやだろうじゃない、もう出来るのです。
 ただそれを聞いただけでね、実践しなかったらそれは駄目です。何にもならんです。尋ねて求めて、矢張り本当に尋ね求めるものがなからねば、血肉にはならないです。止むに止まれん思いで求める。昨日は久留米の近見さんが年末のお礼に出て見えられました。今年は全国でも有数な市として高く評価された。実にその良い市政が出来て居ると言う様な五つか六つかの市の中に入っておると言う事が御礼の一番口でした。
 実際は所が本当に実際はもう大変に苦しいんですけれども、まあ表面だけは、まあ一般にそういうふうに認めて頂いておると言う事が、有難いと言う事のお礼お届けでした。それはまるきり合楽教会のようですねというて話した事でした。合楽教会もまあいうならば、全国津々浦々のあるそれこそ求める人達尋る人達、本気で信心が解りたいという人達の上には、合楽で云うておる事が本当だというふうに皆さん認識が出来てきた。
 だから表面的には合楽は素晴らしいと言う事に、まあ云うて下さる方達も段々増えて来たけれども、実際中味はどうかというと。昨日もその事を話したんですけど、竹葉会でねなら今本部で来年からの新しい運動の原点がね、昨日も話しました様に天地書附の実践を基軸に。と言う事ですね新発足の運動は、天地書附の実践を基軸真にして信心を進めて行こうと言う事になっとります。
 言うならば合楽で言われておる和賀心時代を拡げて行こうという訳ですけれども、そんならこの和賀心と言う事を、あらゆる角度から合楽位に説いている事はないでしょう。けども果して銘々が和賀心をもって本当の意味に於いての、今日の御理解でいうなら、徳を受けて身凌ぎの出来る様なおかげを頂いとる人達はないでしょうが。近見さんのそれじゃないけれども、成程どこよりも先に云うなら和賀心、所謂天地書附を芯真にしてここの教典の御理解の全てがです。
 結局は和賀心のをあらゆる角度から説いてあるのと同じです。しかも和賀心というのは、もうお釈迦様もキリスト様もここ迄は進んで居られなかった。知られなかったという、金光大神の、世界の独壇場の所なんですから、これを勉強させて頂いたら、あらゆる例えば、宗教でもです、昨日も久留米の佐田さんが云うて居られましたが、この何ヵ月か前の、矢部の共励会の時に、創価学会の方達が共励会にやって来て。
 いうなら金光教よりも、創価学会の方が素晴らしいんだとい言う話をして、折伏しよう、説得しようと言う訳で、何人もゾロゾロ徒党を組んでやって来ますからね、創価学会の人達は、やって来たそうです。それでまあ色々とお話を大変お話が上手、中々勉強しとる。それでお話を聞かせて貰って最後に佐田さんが、私がおかげを金光教で受けて来た事を話されたら、もう一言もそれから先はなかったそうです。
 いうならば和賀心の前にはですね、どんな素晴らしい教理でも理論でもです、もう立ち所にこれには脱帽しなければいけない訳にはいかんのです。だから皆さんが和賀心とはと言う様な事を教学的にも実際自分の生活の上にもです、和賀心に依っておかげを受けた実際談と云うのが一番素晴らしいのです。だからそう言う様なですね、なら合楽でそのこれほど何年も前から合楽では、その和賀心と言う事に焦点を置いてしとるけれども、そんなら素晴らしい。
 けれどもその内容、なら信者の一人一人が果して和賀心とはと説明を求められてから、佐田さんが説明された様な説明が出来るだろうか。佐田さんが体験受けて来られた様な体験を皆がしておる受けただろうか。和賀心に依ってですよ。お取次を頂いた。おかげを頂いたというなら、ここの集まって来る人は皆がそうです。お取次をしてお願いしておかげを頂いたと言うならね、ですから久留米の市長さんが言われる様にです、一般からは全国でも幾つかの市に教えられるようおかげを頂いたけれども。
 実内情は大変に苦しいと云うのである。合楽の方でも段々そういうふうに認められて、言うならば沢山の教会の先駆を行っている様な信心を頂いて居るのだけれども、その内容たるやです、なら合楽でおかげを頂いておる信者の一人一人の事を思うたら、これを見て下さいと言う様な信者は沢山は居らんと言う事ですよ。だから中味は出来とらんから、だから皆さんがね、本気で尋ねる求めると云う、云うなら信心を本気で求めると云うならば、それこそ佐田さんじゃなくても誰でも。
 それこそつまびらかに和賀心を教学的にでも体験の上からでも説き明かせれるものが出来とらなければいけないのです。そしておかげの全てが和賀心に、集まって来るおかげでないと弱いです。只お願いをして頂いたおかげなら、例えそれがどんな奇跡的なおかげであっても大した事はないです、ね。そこで今年はその様な風でおかげを頂いたから、所謂来る年、新しい年に備えて、元旦の時に今年の、言うならば新しい年の抱負を皆に聞いて貰おうと思います。
 先生私はこの度はこう云う三本立てで内容にしてお話をしたいと思う。またそれを新しい五十一年度の久留米市のスローガンともして市政を進めて行きたいと思う、と云うお届けがありました。一つはね、故郷古里思考中々近見さんらしいですね。思考とは思い感ずるということ。自分の故郷を大切にしようと言う意味でしょうね。次には活力活きた力。次には愛がなければ、というテーマだそうです。
 愛がなければ、先生どんなものでしょうかと、私は本当にこれを市政の上に現して行く、こういう行き方をもって進みたいと思う。そのためにこの三つの方針で良いでしょうかと言うお伺いがありましたから、神様にお願いをさして頂いたら、水の城と頂きました。水城ですね水の城。そしたら大変喜ばれたんです。私が御理解も説かなかったのに、ああ是で本当におかげ頂きました。云うなら自信が出来たというのです。やっぱり時々御理解を頂いたり、おかげの泉を読みよんなさるから解ってある訳です。
 水と言う事はお恵と言う事そのお恵の城だと、久留米市はめぐまれておるんだと。神様のおかげを頂いとるんだと、何時の場合でも天地のバックを頂いとるんだと、さあ久留米市に何か行事のあると言う時なんかお願いをして、例えば天地が自由になる様な、天気なら天気の上におかげを受けて居る事実から言うてもです。近見市長のしゅわんと言うのではなくて、そのバックには合楽があるのだ、天地の親神様が御守護下さってあるんだと感じられた訳です。
 だから来年もまた本当に有難い年として、今度は内容のあるおかげを頂きたいと言う訳です。これはです言うならば、参って尋ねる所がと言うなら、ただお尋ねと言うだけですよね。そして自分ある意味で自信が出来た。だからならこれをです、なら本当に信心を求めて見えて居るならばです、信心を尋ね求めると言われるならば、私はその水城と言う事の御理解をそれから先もまた伝えたかったけれども。
 秘書の方達も皆見えて何かこう忙しそうな感じでしたから、ただそれだけしか伝えませんでしたけれども、信心を求めて見えるならば、私が水城ということに付いて今度は御理解を説く事になります。その御理解を頂いて身に付けるならば徳が受けられ、身凌ぎが出来る様になろう程しの御教えなんです水城と言うのは。だから近見さんが久留米市の中心としてです、来年の自分の抱負と云うものをこの三つの、この三本立ての方針をです、市政の上に現して行こうとそれだけではどうも心許ないから。
 合楽で御神意を頂いて一つ自信を付けたいという思いで見えたのでしょう。神様のおかげで、神様の御守護を受けて居ると、バックに合楽があると思うただけでも、その水の城と言う事で大変なおかげを頂かれたと言う事です。そこでなら近見さんが信心を求めて見えとるならば、私はそれからの御理解を聞いて貰うたら、求めて見えとるならこれは求めてない人に言うて聞かせても分からんですからね。
 合楽の御理解は分からんです。本当に言うならば、尋ね求めて信心を見えて居ると言うならば、いわばこういう行き方になれば徳を受けられますよ、こう言う行き方になれば身凌ぎが出来るようになりますよ、と言う御理解になって行くのですけれども、まあ残念な事に、信心を求めてと言う事ではまだない訳ですね。水と言うのは言うならば器に従うと云われとりますね。また水の生態と云うものはです、もう高い所から低い所低い所へと、もう流れ流れ切って行くと言うのが水の生態です。
 どんなに障害があってもです、こんなに回って流れて行くのです。それでも回る所がなかったら、だんだん流れて来る水がだんだん貯って、それを越して流れて行くです。丸い器に入れれば丸くなり、角い入れ物に移せば角になる。もう自由無得の心です。だからこういう心の状態を願い求めて、それを自分のものにする為に、所謂水の城です。城のおかげを受けなければならない。
 城のおかげと言うのは、あれは土遍に成ると書いてあります。私の方の孫が生まれました時に、お名前を頂いたのが恵の城と、恵城と頂いた。その時に頂いた御理解ですけれども、本当に恵まれる為にはです城の信心が身に付いたら、もう恵まれ続けると言う御理解でした。ならここの三代を次ぐ事になるでしょう。なら三代目がですこの城の信心を身に付けて行ったら、もう限りなく恵まれて行く。親の代より子の代、子の代よりも孫の代と繁盛して行く事だろう。
 だからこの城の信心を身に付けなければならない。城と言う字をなら分解すると土に成ると書いてある。結局土の信心です。泥の信心さえして行けば必ず成就すると言う事です。泥の信心、言うならば黙って受けるだけではなくて、それを今度は育てて行くと言う事なんです。自分の心の中に、言うならば黙って受けるだけではなくて、自分の心を育てて行く。小さい心が大きく育って行く事でしょう。
 豊穣になって行けばどんな物を蒔いても芽が出るでしょう。花が咲くでしょう。実が稔でしょう。水城と言うのはそう言う意味があるのです。そこでならそう云うおかげが受けられるということは徳が受けられ。身凌ぎが出来る様なおかげ受けられる。為にはです所謂信心を尋ね求めて来なければ与えられないでしょうが。近見市長が見えらて信心を尋ね求められるなら今の所を話す。例えば今の所を話した所で、今の市長さんの耳には入らん。ただ呆然とです、(漠然)水の城ああこれでおかげ頂きました。
 腹が決まりました。何時も神様のお祈りの中にある、おかげの中にある。何時も合楽が私の久留米市のバックである。今年おかげを頂いてきたのも、矢張りそういう御守護の中にあってであると云う感謝の心と、来年も又神様の祈り合楽の祈りの中にある。そこから新たな市政に対する一つの信念と云う様なものが出来られた訳です。
 その事のお伺いの事だけに対する是は、だから御理解ですそれで矢張り力が出来るですね。自信が出来る。だから信心はそこからもう一つをです、なら尋ねる所がなかったということは、そういう意味での尋ねると言う事ではなくて、もう一つ向こうの信心を尋ね求めるという姿勢を創らなければいけんのです。皆さんが右にしたら良いでしょうか、左にしたが良いでしょうかと。
 昨日もある人が、昨日はお鏡つきの日でしたからね。何時も残って御用頂いて行かれるけれども、今年は何時もの様に残らして頂きましょうか、帰らして頂きましょうかのお伺いであった。だから私は帰ったがよかばのと私が申しました。これはお伺いじゃないです。言うならば、だったら本当に今日はもうお鏡つきだから残って御用を頂こうと思うなら、今日は御用を頂きたいのですからどうぞ家の事はよろしくお願いします、という腹で私は御用と云うものは頂かねばいけないと思います。
 だからそういうふうにです、右にしたら良いか、左にしたら良いかと言う時は。お伺いすると言う事は信心を尋ねると言う事にはならないです。そのまあ一つ向こうなんです。だから、ならどうする事が信心でしょうかと言うて尋ねたならば、そりゃ残んなさいと私は必ず言うたでしょう。だからもう一つ向こうを尋ねなければいけんのです。近見さんの例を今日は聞いて頂きましたがです。只お伺いと言う尋ねるそれでもおかげは受けます、ね。おかげだけならけれども信心を尋ねる。
 求めると言う事になって参りますと、なら同じ水城であってもそのもう一つ奥の、いわゆる真の御理解、真のおかげ、真の身凌ぎの出来れるお徳が受けられる御理解を頂く事が出来るのである。なら頂いとってもそれを行じなかったら詰らんけれども、真剣に尋ね求めると云う姿勢がある人なら、それを行じるでしょう。本当に水の様な信心さして貰おう。土の様な信心さして貰おう、これを自分の信条にさして貰おうと言う様な頂き方になって参ります時に。
 初めて徳が受けられ見凌ぎの出来る様なおかげになって来るのですよ。だから皆さんがお尋ねなさる、お伺いなさると云うても、そのお伺いをするまあ一つ向こうの所を尋ねなきゃいけません。今日は餅つきでこちらの方が忙しいから残らして頂きましょうか、帰らせて頂きましょうか。そんなら帰んなさいと、私がそんならとは言いませんでしたけれどもね。そりゃ帰ったが良いですよと、私が申しました。だから帰んなさいました、慌てて帰んなさいました。
 だからどうする事が信心でしょうかと、言ったならば必ず私は残んなさいと云う筈じゃった。そこに言わば身凌ぎが出来るとか、お徳が受けられるとかと云う信心はそこから先でしょうが。この辺の所をひとつ抜け目なくね、同じ一つのお尋ねさせて頂くでも、信心も一緒に頂けて行くようなお伺いの仕方、お尋ねの仕方をさして貰わなければ、今日ここで云う尋ねる所がなかったが、ここへ尋ねる所があると言う事にはならんのです。どうぞ皆さんお徳を受けて身凌ぎの出来るような信心を頂かにゃいけんですね。
   どうぞ。